Release: 2014/10/31 Update: 2019/03/25

01-02: ハンマー

重苦しい雰囲気の部屋にざわついた空気は似合わない。重厚な扉を押し開けて中に入った瞬間に仁科克資は吐き気をもよおした。

茶黒の油がべったり拭着つけられた木目の床は、3度目にも関わらず鼻になじまずカビが束になって鼻毛にこびりついた臭いがする。

それに、これまでの2回は傍聴席を含めた30畳ほどの部屋にたかだか10人余りの関係者しかいなかったのに、開きかけの扉の隙間から一瞬にして耳に飛び込んでくるのは日本武道館でアリスのコンサート開演目前にした観衆のざわめきそのものである。

一気に扉を押し開く、と今日座るはずの長机と椅子が幕が開くがごとく見えてくる。銀色のパイプ椅子が今日は暖かそうな色合いに見えたのも瞬の間、傍聴席に有るべき長椅子が無い。

見覚えのある顔の載った上半身3,4体が前列真ん中に所狭しと見て取れたかと思うと、みるみる間に見知らぬ群衆が雪だるまのごとく大きくなって目に飛び込んで来る。

女性は少ないがそのほとんどはグレーや紺のスーツを着ていて一目でプレスと分かる。傍聴席の両端何段かを占めているのも男性の記者だろう。ネックトラップや腕章が黒のスーツによく似合っている。

腕時計で開廷の時刻まで後1、2分しかないのを確認して一気に椅子の後ろまで足を進める。

「今日はよろしくお願いします」と既に着席して書類を整理中の女性に挨拶をし始めた途端、その女性はパイプ椅子を両太ももで押し下げながら立ち上がり「こちらこそよろしくお願いします。いよいよ最終ですものね」と挨拶を返されたが、立った弾みでころげ落ちた鉛筆が床に落ちて鈍く響く音と被って聞こえた。

傍聴席の中からぼそぼそと聞こえる押し殺したような話し声に合わせて「今日はどうしてこんなに人が多いんですか?判決の時はいつもこんな感じなんですか?」とその女性に聞いてみた。

この裁判で弁護士役兼書記役で初回の公判だけでなく下打ち合わせにも随分とお世話して頂いている菊池さんである。

「被告側から情報が漏れたんでしょうね」と間をおいて「マンモス会社を相手取ったハラスメント訴訟の判決となると、メディアの関心を引かない筈がないわね? びっくりしたでしょう!」

「手が震えてますよ。心臓もパクパクだし」とりあえず告白した後「でも今回の話は、最初から負けても仕方が無い内容だと分かっていて、素人ほりだしの私が、ただ信念だけで起こした裁判ですよ。

最後にこんなに騒ぎになるんだったら止めとけばよかった。今日は、私は何もしゃべらなくていいんですよね? ただ判決を聞いているだけで・・・・恥ずかしいな~・・・」

「大丈夫!根拠不足は否めないけど和解に持ち込めるかもしれないし、それに仁科さんの思いは立派に世の中の人に通じると思うわ。今日こんなに報道関係者が集まっているいるんですものね」と菊池さんが言い終わる前に、裁判長とその後から陪審院4人がひな壇に着席を終えていた。

まもなく被告側も弁護士はじめ社長、事業部長、と見慣れた堅井担当部長の4人が向かいの長机に着席を終えていた。

いなや、”コぁ~ん”とハンマーを叩く音が一回だけ鳴り響いた。「開廷します!」

 

 

 

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