やさしい手・壱岐(013:純真)
大村 サチ さん85歳
大分県の農家に生まれ、職場で知り合った旦那さんと結婚して神奈川県に嫁いできた
既に独立されているお子さん3人とは別居していて、月に一回長男さんが実家に来られる
サチさんは小さい頃、米や野菜作りそれに炭焼きの手伝いをして成人して後、農協勤めに根性つくしてこられた
その農協に研修生として1ヶ月の出張でこられた旦那さんに農協業務研修指導されて恋に落ちたとか
1歳年下の旦那さんは3年前に脳卒中で倒れられ、今お一人介護施設にお世話になっておられる
もともと暖かい土地で過ごされてめっぽう寒さに弱いとかで施設の入浴等を楽しみにされている
そんなサチさんが入浴拒否されだしたのは半年前の84歳の冬のこと
「いいの、昨日家で入ったから、いいのよ、いいの」と自分に言い聞かせるような口調で介護士の薦めを断られた
「あら! お家で入ったの? それは残念ねー でも今日のお風呂は柚風呂ですよ 暖まりますよ」
「昨日も柚風呂に入ったわ、だから大丈夫よ ありがとう」とサチさんに”隙は無い”、こともない
お家のお風呂は火の元が心配だからと3年前から長男さんにガス栓ごと止められている
アルツハイマー進んだのだろうかとも思えるが知らない人にはしっかり頭を使っての言い訳である
あれほど楽しみなはずのお風呂を、なぜ拒否ったのか介護士には想像つかないまま
「分かったわ、じゃー背中の傷に軟膏だけぬって差し上げるのでお風呂場にちょこっとだけ来て頂けます?」
これは介護士の入浴拒否者への常套手段である
「えっ? 背中にキズなんか無いわよ!」
『しまった!』介護士が反省する間もなく「あんた、変なこと言うのね!」と口調が荒らがってきた
「だいたい、ここのお風呂汚いじゃない、それに狭いし・・・よっぽど家で入る方がいいの! だからほっといて!」
本音ではないと思いつつも介護士も続ける
「そうね 狭いし、汚れも少しだけ残ってるときありますよね」
「じゃーさ、これからお風呂洗ってお湯入れ直すから入って貰えます?」これまた『しまった!』と頭を過ぎる前に
「あんたひつこくない?! 家で入ったって言ってるでしょ!」と怒り出した
こうなればもう救いようは無い
ここ小規模多機能型居宅介護施設でデイと宿泊をご利用中のサチさんには、ひとまず一晩おいて明日改めてお誘いすることとした
翌朝、サチさんはいつものように「おはようございます」と顔色も優れ気持ちの良い挨拶された
朝食もしっかり食べられてこれまた大好きなコーヒを呑まれている
バイタルチェックをご利用者一通り終え、改めておそるおそるサチさんに声掛けする
「昨日の晩はえらく寒かったわね? クリスマスも間近なので仕方ないけど、暖かいお風呂の用意もできたので案内しますね」
すかさずサチさん「あんたね! 今コーヒー飲んでるでしょ! もうちょっと待ってよ 飲み終わるまで・・・」とマグカップを口に運ぶ
が、口に当てたマグカップは傾けようともしないでテーブルにすとんと置く
勢いよく置いたものだから残りのコーヒが跳ねるかと思いきや上がらない、それもそのはずマグカップにコーヒーは残っていなかった
「ごめんなさいね、私もコーヒー頂こうかしら? 飲み終えた頃、またお風呂案内しますね?」
「あんたねっ、お風呂は昨日家で入ったって言ってるでしょ! コーヒーと何の関係があるのよ! このホーム可笑しいんじゃの?」
さー、ここまで来ると入浴を拒否する原因だけでなく、何が原因で気分を害しているのかを分析しなきゃ前には進まない
あれほど好きだったお風呂を何故利用しなくなったか、それも急に、今まで入浴を渋ったことは一度もないサチさん
入浴以外のことでも滅多に声を荒げることは無かったのに・・・・・
その晩にその原因は判明した
夕食を終え口腔ケアを済ませて居室に戻って行かれたサチさんに、洗面所に忘れられた義歯を届けに行った
ノックをしたが応答を待たず扉を開けたその先の光景が教えてくれた
パジャマへ更衣中だった
リハパンを半下ろした左臀部に一生懸命軟膏のようなものを塗っている最中だった
「サチさん! それどうしたのよ?」と近寄って見た軟膏のようなものとは化粧水だったのだ
「あーッ・・※*$%・・・」と何を言っているのか分からない
「いえね、ここにおできみたいなのが出来て痒かったので掻いたら血が出てきちゃって・・・たいしたことないのよ?」と
可愛い子供のようにお話しされる
「ほんとね、すこし血がついてるわ、ちょっと待ってて!薬持ってくるから」とサチさんの返答を待たずに居室を出た
居室に戻るとサチさんは出てきた時と同じ格好でじーっと待っておられた、観念したのだろう
「お待たせ!これ良く効くのよ、あとバンドエイド貼っとくね・・・これで大丈夫!、たいしたことないわ」
「ありがとう・・・見つかっちゃったわネ・・・何の病気かしら?」と恥ずかしさ半分、申し訳なさ半分の困り顔
「大丈夫! 病気なんかじゃなく只のニキビみたいな出来物! まだまだ若いって事よね!サチさん!」と安堵の介護士は嬉しくなった
正直、芯から嬉しくなった
入浴拒否の原因がこれだったからです
念のためにと翌日受診したのだが、その時の恐縮しきったサチさんの顔が付き添った介護士には天使に見えた
80歳台半ば、女性は美しくありたいという気持ちは衰えないらしい
サチさんも軽くファンデーションと口紅を使っておられる
あいにく薬は飲み薬も含め施設お預かりで傷薬などもご本人は持ち得ていない
よほど擦過傷が痛かったのだろう、あり合わせの化粧水で間に合わす行為自体は恥ずべきものではないが、
ご本人にとってはお風呂で見られるのが痛く恥ずかしかっただろう
翌日、サチさんには初の足浴を薦めた、喜んでおられた
「へーっ、足を付けるだけであったかくなるのね」なんてとぼけておられる
もちろん、キズは治りきっていないが3日後にはちゃんと入浴もされて、何事も無かったように可愛い笑顔が戻ったのである
周りからは何でも無いことが、本人にとっては大層重大なことってよくある
そんな状況下では、普段お目にかかれない言動があらわれるのも不思議では無い
たかがお尻のオデキ、それを見られたくなく、とんでもない嘘をついてしまう
まるで子供のように
しかしその殻が破けて周囲と共有できたとしたら「なーんだ、つまんねー」ってなるんですね
その後にサチさんが話してくれました
「小さい時、炭焼きのお手伝いしてて、薪のささくれがお尻にささって怪我したことあるのよ
すごーっく痛かったんだけど、お父さんは『余計なことするからそんな目に遭うんだ!』ってこっぴどく怒ってたわ
怪我したお尻も叩かれたわ、炭焼きの手伝いをしてただけなのにね『ここが悪いのかっ』って反対のお尻を叩かれたのよ
『悪のは反対側のお尻よ』って言ってやったんだけど、今思えば、何でもないキズだったのにね」と話すサチさんの目頭は
少し赤くなっていた
素直さ、素朴さ、それに純粋さって年とともに欠けていくとものと思われがちだがそうではない
「老いて二度児になる」と言われるとおり、高齢になればなるほど、更には認知症になったとしても
純粋・素朴さは若い頃のそれに戻ってゆきます
若い内から、心の純真さは大切にしたいもの