やさしい手・壱岐(014:習慣 )
『あのさ・・さっき言ったでしょっ!
昨日病院に行ったんだから今日は行かなくていいの! じっと家で留守番してて!
頭が痛いんだったら寝てなさいよ その辺ホッツキ歩くんじゃないのよ!! わかった!?』
キッチン奥で携帯のスイッチを切りながら「ほーんと、しょうもない事で電話してくんだから」と
ベテラン介護士聡美さんが独り言のように呟く
傍に居たケアマネにそれとなく言っているようにも聞こえるが
携帯をエプロンのポケットにしまい込みながら施設のリビングに走り出す
『さっ、そろそろ体操しましょかね?! 皆さーん 音楽をかけ・・・・・』とリビングのご利用者さんだけでなく、
居室の方にも聞こえるように大きな声で声掛けする
聡美さんはこの施設で働き出して10年のべてらんケアワーカー
初めて介護のお仕事についた頃は何をしていいのかも分からず
1日中ぼーっとリビングの片隅でご利用者の様子を見るともなく眺めていたそうだが
やがて会社が運営する研修機関でホームヘルパー2級の資格を取得し、一昨年に介護福祉士の資格も取得された
25人のご利用者にはしっかりと寄り添って信頼も得ており、施設の中では年長ということもありリーダー業務もきちっとこなされる
聡美さんの介護における信条は「出来ないことはお手伝いしても出来ることは絶対手出ししない」だと施設長は言っていた
今も『ほらほらキヨノさん! 立てるんだからしっかり立って・立って! 立つのよ!』と容赦ない
しかし体操レクが終わって直ぐ
『キヨノさん、しっかり体動いてたわよ、協力して戴いてありがとう』と軽く頭を下げると
「いえいえ、こっちこそありがとう、なんだか体凄ーく軽く感じるワ」と笑顔で応えてくださる
居室からタオルを手にして出てきたケアマネが
「ねえねえ、さっきの電話、お母さん? 何かあったの? 大丈夫なの?」と
額の汗を拭きながらキッチンカウンターに戻ってきた聡美さんに声を掛ける
『あ-、大丈夫ですよ、いつものことだから』
「えーっ? だって、あんな口調で電話するとこ見た事なかったわ、今まで」
『そうですよね、私もお母さんが電話してくるの久しぶりですもの・・・・
昨日朝から下痢みたいというので、酷くなるようなら電話してって昔お父さんが使ってた携帯を渡しといたの
昨日も病院連れてったのよ
何か水物にでもあたったんだろうと薬貰ってたんだけどね、今朝は頭が痛いって言うの
勝手に冷蔵庫から氷だして頭に当ててるから「冷やしたらまた下痢するから止めなさい!」って言ったら
「下痢なんてこれまで一辺もしたことないわ」って言うんで少し頭にきてね・・・
今日は主人が休みで家で面倒見てくれるはずが、急に仕事が入ったとかで、私もシフト変えれそうもないし
仕方ないわね、少し淋しくなったんだと思うんだけど、しっかり電話してくるんだもの』
「そーね、期待していたことが外れると、お年寄りに限らず誰でも気が滅入っちゃうわよ
帰ってあげれば? ここは大丈夫よ」とやさしくケアマネはピースサインを出す
が、サインを見る間も無く『あーちょっと待ってー、いわゑさん』と半ば叫びながら
車椅子から立とうとしているいわゑさんの腰を素早く抱きかかえる
『なーんだ、ティッシュが欲しかったのね 気が付かずごめんなさいね 1枚で良いですか?』
テーブルの端っこにあったティッシュボックスから1枚ティッシュを抜き取っていわゑさんの手に持たせてあげる
「あんがとう、ここにティッシュあったや、部屋に取りに行こうかと思っててん、助かったわ」
いわゑさんは中度のアルツハイマー型認知症に加え、白癬菌による細菌感染が原因で壊疽(えそ)した左足を
太股から切断したばかり、介護度も一挙に要介護2から4に上がった
ご家族が反対する手術をご本人は「こんなもんさっさと切り捨ててんか」と無茶振りの関西の人である
ご主人を亡くし、仕方なく横浜の娘さんの嫁ぎ先にお世話になることになったが、ご家族とは折り合いが悪く
ご本人の希望でここの施設に連泊し始めて三週間になる
そんな二人のやり取りを観ていたケアマネが足早に近寄ってきて
いわゑさんの持つティッシュを優しくタオルに取り替えてあげながら、少し荒げた口調で言う
「聡美さん、ごめんなさいなんだけど、いわゑさんにはタオルの方が良いと思うわ
間違って食べちゃったら困るでしょ?!」とはケアマネがご利用者を前に言う台詞ではない
『すいません、いわゑさん、どうしたら機嫌損ねず座ってもらえるか咄嗟に思いつかなくて
でも良かったわ、というか、いわゑさん、私に気遣って『助かった』ってお礼を言ってくれたんですもの
ありがとう・・・いわゑさんのお部屋にはティッシュは置いてないんですものね』
『私は咄嗟の判断を誤ったけど、いわゑさんは咄嗟に私に助け船をだしてくれたんですね 凄いワ』
「なーんだ、知ってたのネ
ごめんなさいね、偉そうなこと言ってしまって・・・
前の施設でティッシュを喉に詰めてしまったご利用者さんがいて、大変な思いしたことあるから
つい大きな声を出してしまったワ ごめんなさいね 」とタオルを手にして嬉しそうないわゑさんに笑顔を返す
『いえいえ大丈夫ですよ、こっちこそすいませんでした
それより、どうしてタオルなんですか?』
「どうしてかなー、習慣なんだと思うの
何かするときは肩にタオルを掛けるのが
家事なども終わったら直ぐに汗や手を拭けるでしょう?
体操の始まりの声で居室から慌てて出てきたのは良いんだけどタオルを肩に掛けるの忘れちゃったのね
終わって汗を拭くのにタオルがないのに気が付いたのか、肩辺りを手探ってたのよね
居室から持って来て直ぐに肩に掛けてあげれば良かったんだけど・・・」
『あっそうなんだ
そういえば最近よくタオルを肩に掛けていらっしゃいますもんね
良く観てらっしゃいますね
さっすがケアマネ』と言いながら軽く会釈するさと、ケアマネは聡美さんに向き直り続けて言う
「聡美さんのお母さんの場合もそうだと思うの
いつも傍に誰かが居ることが習慣だったんじゃないかしら
傍にいない時は電話なんかでいつでもお話しや相談、それにお願い事ができる
そんな習慣が身についてるんじゃないかしら
習慣というのは良くも悪くも”その人らしさ”の象徴なのよね
年を重ねて新しい事が出来なくなった今は、その習慣に寄り添って上げないと
反対に危険な事って多いわ
タオルを使い慣れたいわゑさんが代わりにティッシュを使うと誤って喉に詰める
とか、
何時も傍に誰かがいる習慣の方が体調を崩して電話で相談してるのに、それに応えてあげれないとか・・・ね」
『・・・・・ありがとうございます
家にちょっと帰ってきます
2時間だけお休み頂けます?』と言うや
聡美さんは更衣室に向け走り出した
「いいのよーっ! さとみさーん! あんたは走るのが習慣なのね!」と言い終わらない内に、聡美さんは更衣室に消えた